ジンギスカン豆知識

ジンギスカン豆知識豆知識

北海道ジンギスカン鍋

北海道ならではの進化と派閥争いを繰り広げる鍋

ジンギスカン用の鍋と言いうと、固くて重い鋳物で、中央部分が盛り上がった山状のものを真っ先に思い出す方が多いかと思う。

オーソドックスなスタイルと言うとこのタイプだが、最近はこの山の中腹にスリットの入ったもの、中央に丸く穴の開いたものも見かける。このスリットは余分な脂を落とし、直火が肉に当たることで遠赤外線効果により適度な焼色・旨味を加えられるという利点があるようだ。

さらに刻まれた溝には放射状のもの、渦巻状のものなど様々なタイプがあり、まさに百家騒乱!鋳物メーカー各社が「これぞ王道」というものを開発し売り出している。

野菜を裾野の窪みの所に置いて、上から流れてくる肉汁とタレ付きならタレの味で煮るということもできる。実は、鉄の鋳物鍋が使われるようになったのは太平洋戦争前後からで、昭和の初期には他の焼肉と同様に金網で焼くのが一般だったとか。

最近では家庭やキャンプで手軽に使えるような、使い捨てのジンギスカン鍋が登場。また、「便利だからホットプレート」という家庭も多い。鋳物の鍋は使った後の始末が重要とジンギスカンの通は必ず言う。

こびりついた焼け焦げを金ダワシなどで丁寧に落とし、もう一度軽く火にかけて水分を飛ばし油を塗ってからしまう。脂を完全に落としてしまう洗剤の使用は避けた方がいいそうなのでご注意を。

北海道に見るジンギスカンの地域性

内陸部は味付け派、沿岸部は後付け派

ジンギスカンは広く道民に愛されているからこそ、一人ひとり、地域ごとのこだわりや思い入れも強い。

道具やタレの味、付け合せの野菜、締めの一品までいろんな流派が跋扈している。特に大きくその勢力を分けるのが「タレの後付派」と「味付け派」だ。

肉をしっかりタレに漬け込んでから焼くという味付け派は滝川市周辺で始まったと言われるだけに、内陸部の地域では味付け派が一般的で、沿岸部や都市部では、焼いた肉をタレに漬けて食べる「後付派」が隆盛のようである。

これは一説には、魚文化で育った沿岸部に比べ内陸部の人たちは匂いに敏感だったためと言われる。当時マトンの冷凍・解凍技術が今ほど進んでいなかったために発生する匂いを避けようと、もみダレで匂いを消していたのでは。

そのため、滝川や長沼には味付け肉を加工するメーカーが数多く見られる。ユニークな存在としては名寄の「煮込みジンギスカン」が面白い。名寄では、他地域より肉を漬けるタレの使用量が多いと言われている。

この肉をタレごと鍋に入れて煮込むという食べ方で、昭和30年頃から定着した。他には、ジンギスカンと一緒にウニ・アワビ・ツブなど海産物を味わうという松前など港町の食べ方も面白い。

ジンギスカン、北海道民はいつ食べる?

何かあれば「さぁジンギスカン」 何も無くても「まぁジンギスカン」

花見と言えば、本州なら重箱に煮物や玉子焼き、蒲鉾なんかを詰めた「お花見弁当」となるのかもしれないが、北海道ではジンギスカンが幅を利かせている。

花見の名所、札幌円山公園では1セット500円でコンロや炭がレンタルされ、見ごろの休日にはすぐに予約で一杯になると言う。山形なら「いも煮」、北海道なら「ジンギシカン」が花見の王道というところだろうか。

キャンプ場に行っても、必ずどこかでジンギスカンの煙が立ち昇る風景を目にすることになる。小・中学校で行われる炊事遠足でも、カレーや豚汁と並んで人気料理として作られるようになった。

他の肉に比べて安価だったり使い捨ての軽い鍋が登場したことも手軽さを促進したのではないか。家庭においても、ジンギスカンは石狩鍋などとともに、家族が集い箸を出し合う料理の定番としてしっかり根付いた。

ホットプレートで代用する家庭も多いが、多くの家庭で本格的ジンギスカン鍋を所有し、その家庭ならではのタレ、焼き方を伝え、こだわっているのも北海道のソウルフードと言われる所以だろう。

家の中では落ち着かないという家族や仲間がガレージにコンロやジンギスカン鍋を持ち込んでワイワイやっている様子もよく見かける。いつでもどこでもシンギスカン、それが北海道なのだ。

健康と老化防止にジンギスカン

良質な動物性タンパク質が老化を防ぎ、体を温める

歳をとったら、脂っこいものは避けてあっさりとしたものを嗜む。それが、日本人の長寿を支えて来たというのが一般的な見解だった。

もちろんそれを全面的に否定するものではないが、最近「高齢者こそ肉を食え」という説が注目されている。高齢になり、食生活が変化することで「エネルギー摂取不足(エネルギー低栄養状態)および、必須アミノ酸が豊富な動物性タンパク質の摂取量不足が、高齢者の健康維持にとって大きな妨げとなっている」と考えられているのだ。

生命維持に必要なタンパク質の摂取が足りなくなっている。ただし、動物性タンパク質なら何でもいいと言うわけではない。そこで注目されているのが羊肉。

脂肪の燃焼を助けると言われるL-カルニチンを多く含み低カロリー、しかも良質なタンパク質が豊富な羊肉が高齢化社会の肉の切り札だと言う。

しかも、羊肉にはもう一つの注目すべき利点がある。それは「体の温め効果」だ。人間の体は1℃低下するごとに大幅に免疫力や代謝が落ちる。体を冷やさず温めることは病気から体を守る大切なポイントだ。

食べ物には体を冷やす寒涼性食物と、温める温熱性食物があるが、羊肉は温熱性。しかも牛肉や豚肉に比べてもかなりその効果が高い。歳をとったら、頻繁にシンギスカン!これは年寄りの冷や水ではなくて、温か水なのである。

ジンギスカンの歴史

1857年 安政4年 江戸から箱館奉公所に10頭の羊がやってきた。

これが北海道と羊との初めての出会いと言われている。

1869年 明治2年 最初の羊の産業化

明治になって軍隊が出来ると、毛織物(けおりもの)の需要が高まり、アメリカから羊を導入するが、日本の風土を考えずヨーロッパの飼育方法をそのまま導入してしまった上に、経験が乏しく管理がうまくいかず、ことごとく失敗してしまう。

1974年 明治7年 開拓のかなめとして、北海道でも始まる

北海道開拓のかなめとして、函館近郊の七重勧業試験場と桔梗野牧羊場や、札幌牧羊場などで飼育が始まりました。調査員の海外派遣や、子羊の無償貸し出し、民間の羊への種付け業務の代行などが始まり、ようやく産業化が始まります。

1875年 明治8年 大久保利通が牧羊の大プロジェクトを開始

千葉県の広大な農地を買い占め、大久保利通が牧羊の大プロジェクトを開始したが、1878年 明治11年 大久保利通が暗殺されたため、巨大プロジェクトは頓挫してしまいました。

千葉の広大な農地は、宮内庁に渡され、宮内庁下総御料牧場(くないちょうしもふさごりょうぼくじょう)となり、当時はサフォーク種約500頭を飼育しており、天皇陛下もジンギスカンを食べていた。そのため園遊会の肉料理には、今でもジンギスカンが提供されている。

1908年 明治41年 政府が北海道の月寒に種畜牧場を設立

寒さで苦戦した日露戦争が終結後、軍服や警官服の被服資材である羊毛の国内自給のため、月寒に種畜牧場を設立しました。

1914年 大正3年 第1次世界大戦開戦 羊毛が戦時禁止製品に指定される

第1次世界大戦が始まると、イギリスは軍事物資として、羊毛を戦時禁止制品に指定。日本は、オーストラリア産の羊毛を入手できなくなり、たちまち国内の毛織物の生産が止まりました。

1919年 大正8年 月寒、滝川、茨城、兵庫、熊本の5か所に種羊場を設置

北海道には札幌の月寒と滝川に種羊場が置かれた。第二次世界大戦による軍需羊毛の自給のためのめん羊飼養奨励(めんようしようしょうれい)が国策として行われましたが、戦争が終わると綿羊の需要も終わりを告げる。

1945年 昭和20年 終戦

第二次大戦が終わると、安い化繊も多量に出回ることにより、ますます羊毛はいらなくなった。そこで増えすぎた羊の有効利用をすべく、北海道では本格的にジンギスカンを普及させようという動きが活発になっていく。

1935年 昭和10年 羊肉料理の普及活動が始まる

種羊場のめん羊実習生による料理研究や羊肉宣伝も活発になり、戦後は農協を通してジンギスカンの試食会も頻繁に行われた。北海道では月寒と滝川の種羊場が綿羊の養殖および調理の仕方を指導していました。

月寒種羊場では焼いた肉をタレにつけて食す方式を指導し、滝川種羊場では羊肉の臭みを消すためもあってか羊肉をリンゴ汁やしょうゆ、ショウガの絞り汁などを混ぜたタレにつけ込んでから焼く方式を指導していました。その結果、月寒・札幌を含む道南地区は後付けジンギスカン、滝川を含む道東・道北地区は味付けジンギスカンが一般的となって広まっていったのではないかと言われています。

1953年 昭和28年 月寒に会員制の「成吉思汗倶楽部」が発足

「八紘学園」の創立者・栗林元二郎が、満州から野戦料理であった「ジンギスカン」を北海道に持ち帰ったことが、ルーツと言われ、現在では「ツキサップじんぎすかんクラブ」として営業をしています。

昭和28年10月5日に第1報が発行された「成吉思汗クラブ報」には、成吉思汗クラブ結成の由来についてなどが書かれている中に、「実にわが北海道の代表的味覚として必ずや各位のご期待にそいうることを信じて疑いません」と書かれております。

1956年 昭和31年 ベル食品「成吉思汗のたれ」を発売

ベル食品は、ジンギスカンのたれを販売してから昭和40年代初めにかけて、たれと羊肉を販売する小売店にオマケ鍋を付け、小売店はその鍋をお客さんに貸し出しました。このオマケ鍋作戦がジンギスカンの普及に一役買いました。

1956年 昭和31年、「松尾ジンギスカン」創業

滝川市は「味付けジンギスカン発祥の地」と言われています。当時の羊肉(マトン)は、臭みを消すことが最大の課題だった。「誰もがおいしいと思える味付けを」と開店まで10年の歳月をかけて漬け込みダレを開発し、臭みを消しつつ肉の柔らかさを引き出す〝松尾〟のタレを完成させた。

当初、現在の松尾ジンギスカン本店がある場所に羊肉専門店を開業したものの、なかなか売れなかった。そこで松尾は七輪と炭を持って滝川公園へ出向き、5月の花見に集まった人々に食べさせた。その評判を聞きつけて、タレに漬け込んだジンギスカンが飛ぶように売れるようになったのです。

1959年 昭和34年 展望台の誕生

月寒種羊場には、最盛期には2,000頭以上の羊を飼育し、その頃から見学者が訪れるようになりました。戦後になると年々見学者(観光客)が増加し、現北海道農業研究センターでは本来の目的である研究成果に支障を及ぼすとして、やむなく入場を制限しなくてはならない事態となりました。

農業試験場と観光客の入場について協議を重ね、札幌観光協会が管理・運営することで1959年(昭和34)北海道農業試験場の一角に羊ヶ丘展望台が誕生し、現在に至ります。

こうして、ジンギスカンは北海道民にとってのソウルフードとなり、昭和28年に発行された、「成吉思汗クラブ報」に掲載されたとおり、「わが北海道の代表的味覚」となったのです。